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シリコンバレーの本質を指摘した作家は消され、再び脚光を浴びるまでの25年間
By Silent Energy Inc.[公式] on
テック業界を、内側から見た人がいる。持ち上げる声ばかりだった時代に、違和感だけを頼りに一冊を書いた作家がいた。
WIREDが、そのポーリナ・ボーソックを訪ねている。25年前に見抜いたことが、いま次々と現実になっている。それでも彼女の名は、長く忘れられていた。当てることと、報われることは、別の話。書き続けた人の、静かな輪郭をたどる記事。
Who Killed Paulina Borsook’s Career? (WIRED)
元記事を読む:
https://www.wired.com/story/paulina-borsook-profile/

予言は、たいてい当てた人を有名にしません。むしろ黙らせます。
シリコンバレーを賛美する言葉があふれていた2000年、その熱狂に冷たい水を差した一冊があります。ポーリナ・ボーソックの『Cyberselfish』。技術は自由をうたいながら、税や規制や公共への責任を嫌っている。彼女はそう書いていました。25年後に読み返すと、当たっています。それなのに、書いた本人の名前は長く忘れられていました。
一行だけ、当たっていた
彼女が見抜いたことは、一文に要約できます。政府を嫌う人たちが、政府の恩恵を受けて生きている。
そこはあらゆる政府規制を抑圧とみなす人たちであふれた場所でした。それでいて、政府の資金を、それも大量に、喜んで受け取っていた。この矛盾を、彼女は業界の内側から指摘したのです。
25年たって、この一点だけが残りました。テック界の反政府的な体質についての彼女の観察は、誰が想像したよりもはるかに予言的に、そして恐ろしいかたちで現実になった。後年、ある批評はそう書いています。当てたのは、この一行でした。
『Cyberselfish』が言い切ったこと
この本は、外から眺めた告発ではありません。ボーソックは自らをフェミニストでヒューマニストでラッダイトと呼びます。派手なデザインと自由市場への偏愛が新しい経済の空気を決めていた頃、彼女はWiredの寄稿ライターでした。そこで見たものを、好きにはなれなかった。
もとになったのは、1996年にMother Jonesに書いた一本の記事です。『Cyberselfish』は2000年に刊行され、その記事をたどりなおすように、テクノリバタリアニズムの起源を書きました。
「テクノリバタリアン」という言葉そのものが、彼女の手で広まりました。批判の場でこの言葉を根づかせたのが、2000年の『Cyberselfish』だったのです。褒め言葉ではなく、違和感を言語にした一冊でした。
自由を売る人たちの、ほんとうの値札
本の中身は、自由をうたう人たちの請求書を、こっそりめくってみせるものでした。基礎研究、航空宇宙のエレクトロニクス、住宅、高等教育。数十年にわたる政府の資金が、民営化された技術のヒーロー物語からすっかり消えている。彼女はそう主張しました。
インターネットも、もとをたどれば公共の投資から生まれています。その事実を、彼女は繰り返し思い出させました。慈善の乏しさを批判し、政府の資金で生まれた産業がなぜこれほど激しく反政府になれるのかを問うたのです。
刊行の年、彼女はすでに次の問いを立てていました。最も豊かな産業が税と規制に抵抗しながら、政府のプログラムから恩恵を受ける。そんな社会を、私たちは維持できるのか。いまの巨大テック企業をめぐる課税や規制の議論と、そのまま重なる問いです。

褒められない予言者
なぜ彼女の評価は続かなかったのか。
ひとつは、痛烈な批評は歓迎されにくいという単純な事実です。当時、テックの支配者たちへの批判を聞きたい人はほとんどいなかった。だから本は大きく売れませんでした。イーロン・マスクやピーター・ティールの時代になって、新しい世代が彼女は正しかったと気づき、その仕事が読み直されています。
もうひとつは、本を出すまでに受けた痛手です。原稿はWiredの出版部門向けのはずでしたが、話は流れました。二番目の出版社は原稿を買い、前金まで払ったあとで、それを拒みました。「彼らは本を殺した」とボーソックは言います。文学的な質が足りないと言われ、お金を全額返せと求められた。
そして、その後は静かになりました。編集者は電話に出なくなった。彼女が女性の批評家だったこと、時代がドットコムバブルのまっ只中だったこと。理由はいくつも重なっています。どれが決め手だったかは、たぶん誰にもわかりません。
消えたのではなく、書き続けていた
よく語られる「失踪」という言葉は、正確ではありません。彼女は消えたのではなく、光の当たらない場所で書き続けていました。
最近は、雑誌In Formationの新しい号の立ち上げを手伝い、いくつかの記事を書いています。テックのなかにいる人が、テックを笑い、真面目に批判する小さな媒体です。
書くこと以外の仕事もありました。スタンフォード大学のアーティスト・イン・レジデンスとして、2013年に『My Life as a Ghost』の制作を始めています。14歳のときに銃撃で負った外傷性脳損傷を抱えて生きる経験にもとづくインスタレーションです。
2015年、彼女は自分の本を振り返って淡々と書きました。「あの damned な本」と自分でニックネームをつけたこの本が2000年に出た。それがいまだに意味を持ってしまうのは、少しばかり落ち着かない。喜びではなく、当たってしまったことへの居心地の悪さ。そういう距離の取り方をする人でした。
残る言葉と、消える言葉
再評価は、彼女が仕掛けたものではありません。この一年、『Cyberselfish』は新しく、敬意ある注目を集めました。テック史から彼女が消されたことに憤った同業のジャーナリスト、ギル・デュランの働きかけが後押しになっています。2025年9月、彼はシリコンバレーの利己性を論じながらボーソックを完全に無視したWiredのエッセイを、批判的に取り上げました。
そして2025年秋、本は書店に戻ってきました。2000年の一冊『Cyberselfish』が、ギル・デュランの序文をつけて9月に再刊されたのです。
本人は、この復活をどこか他人事のように眺めています。2025年になって、人々はこの本の観察にもっと注意を払うべきだったと気づき始めた。いまでは小さな現代の古典になったように見えます。
当てた予言は、彼女を有名にしませんでした。ただ、25年前に一人が書いた一行を、いま別の書き手たちが順番になぞっている。同じ場所を指さしながら。それが、言葉の残り方なのだと思います。
報われなくても、光の当たらない場所で書き続けた人の言葉だけが、25年後に残った。