刺身と書は交わる。 =Fish Nude #5=
ArtBy Takehiko TSUBAKINO on
今回は刺身と書
というのも、私のプロフィールには先ず書道、と出てくるのに、今のところ刺身の話ばかりしているからバランスを取るためです(笑)
〈文鎮は鮎です〉
刺身と書は似ています。刺身を切って、一つ一つ置いていくところは字画を書いて文字にしていくのと同じ。一方は筆、そしてもう一方は包丁という、ちょっと曖昧な道具を使っているところも。そして、捏ねくり回すと外連味のない美しさから離れて行ってしまうところも。
手で道具持ってやってるわけですから、自ずと似ます。
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〈愛用の包丁〉
皆さんも習字をされたことがあれば、後から掠〈かす〉れたところを塗り直してはいけません、と先生に言われた事もあるかと思いますが、別に一気呵成に書くことが尊いというわけではないんです。ただ一気に書いたものよりも、後から修正すると作為〈さくい〉が出てしまい、元のよりも美しくするのが困難なだけなんです。
基本的に「人智を超えていること」が美しさの根源なのに、修正するということは、我に返って「人智」を入れ直してるわけですから。
〈サワラと数の子。昆布の糸切りと〉
刺身もあんまり作り込んでしまうと、その構成ばかりに目が行ってしまって、魚の肉体の美しさが引っ込んでしまうことがあります。ヘンに意識しないのって重要です。アナタはホントに魚が好きなの? 単にレイアウトが好きなだけなんでしょ? と魚の声が聞こえてきます。
書もやっていた犬養木堂(毅)が『木堂書翰』の中で「書は面〈つら〉の芸である。面の皮が厚ければ下手でも書ける」と言ってるのはホントに当たってます。要は小手先の技を身につけるくらいなら、面〈つら〉の皮が厚いほうがマシということです。ヘンなことを考えると、頭と手の先が、繋がってたのが切れてしまうんです。電気が流れてたのが、肩のあたりで止まってしまって、文字通り小手先になってしまうということなんです。
思えば、書と魚は、だいぶん前から始めて今も続いているので両方とも性に合ってるんでしょうね。前に本か何かで、書くのと欠く、引っ掻いたり切ったり彫ったりするのは本来同じ行為で、字を書くのが好きな人は彫刻みたいな作業も好きだ、と。そして後片付けが嫌いだ、という説を発見して…なんて良い言い訳だ!と飛びついて、だから掃除が嫌いなんだよ、仕方ないねぇ、と妻を説得しようとして失敗したんですけども。やっぱり小手先は良くないですよ。「面の芸」ですよ。
〈つづく〉